誰の手も届かないところにいてよ

 乾と九井との繋がりが消えた。二体と契約してからずっと側にいるような感覚があったのに、突如として感じられなくなった。
 大寿は勢い良く後ろを振り返る。子供連れや恋人たちらしい人たちは大寿を気にすることなく、大きな水槽を見て楽しげに声を上げている。他人がいるので悪魔の領域に入り込んだ訳ではない。尤も、悪魔の領域に入り込んだとしても二体の存在は常に感じられていた。
 久し振りの休みだというのに乾と九井は話さなければならないヤツがいると言って何処かへ行ってしまった。大寿は一人で水族館に来ていた。分厚いアクリルガラスの向こう側で悠々と鮫が泳いでいる。下から上へと上がる、緩い笑顔をしたアカエイを幼稚園ほどの子供が見て楽しそうに声を上げている。泡がきらきらと光を反射させながら上昇する。
 大寿は己の左目を閉じた。右目で注視をすれば、九井の視界を借りて九井が見えている景色が見える――筈だった。だが、視界は変わらない。大寿が見える景色しか見えない。大寿は逸る気持ちを抑え、集中する。大寿が幼い頃より感じていた二人の存在は今や何処にも感じられない。今までなら契約により、双方の位置が解っていた。契約書における期日は、大寿自身の肉体が死を迎えるまでだ。それが消えたとなると、乾と九井は恐らく――。
 大寿は踵を返した。悪魔との契約が白紙になったことを協会に報告しなければならない。強力な悪魔二体がいなくなったことは痛手だろうが、大寿自身が行うべきことは何も変わらない。その前に、と大寿の足は自身が寝泊まりしている教会へと向かう。大寿の背後にある水槽を漂うように泳いでいたマンタが別の魚にぶつかり、ゆっくりと沈んでいった。
 大寿は教会に置いてある、普段エクソシストとして仕事をしているときに来ているコートを取り出す。その内ポケットに入れていた、以前乾と九井から貰った鉱石のついたアミュレットを取り出す。その石からは二体の悪魔がかけた魔力が感じられた。彼らの意思で契約を切ったり消滅したりしたらこの魔力も無くなる筈なので、どうやら何かがあったらしいと推測する。上級の悪魔に起こることか、と大寿は自分だけの緩やかな考えに浸る。それでも思いつくような回答は躍り出ない。
 大寿がふと顔を上げるといつの間にか夕暮れになっていた。蜜柑色のゼリーの内側に滑り込まされた感覚だ。窓の外を見ると、車も人も誰も通らない。電線にはいつも雀が幾つか連なっていたのに全くいない。そこで初めて、悪魔の領域に入り込んだことに気付いた。いくら思考の海を漂っていたとはいえ、余りにも迂闊だと大寿の背後に自己嫌悪が擦り寄る。
 気休め程度の聖水が入った瓶をコートに入れ、手に銀の弾丸が装填された銃を持つ。大寿は銃を持ったまま指を絡めさせ、眼を閉じて神に祈る。ゆっくりと瞼を上げた。金の目に不安さも迷いも何も見られない。ただただ冷徹な意思が宿っている。大寿は外へ繋がる扉を開いた。
 乾いた風が大寿の頬を静かに撫でる。紅のコートの裾がひらめく。人の気配は全くない。悪魔の気配を感じるが、辺りを見渡しても見当たらない。この悪魔の気配は大寿がよく知っているものだ。数年前程に弟と無理に契約をさせ、大寿がその契約を無効にさせた悪魔、三ツ谷のものだ。あれ以降三ツ谷はそこそこ頻繫に大寿やその弟と接触をしている。乾と九井は三ツ谷自身や彼がやることなすこと全てが耐えられないほど嫌っていた。
 ごう、と強い風が後ろから大寿を押して吹き抜けた。大寿は振り返る。

「な、」

 大寿の口から言葉が消えた。昔話で見るような龍が泳いでいる。獰猛そうな鳴き声が響く。びりびりと窓ガラスが振動で震えた。龍は動きを反転させ、大寿の方へ向かっていく。大寿は咄嗟に駆け出し、教会から離れる。龍は派手に教会に突っ込んでいった。レンガ造りの壁がぼろぼろと簡単に崩される。中にあったテーブルや椅子などの家具が壊れた状態で落下する。辛うじて残った、十字架がある部分に、龍は身体をぐるぐると巻き付かせた。頭を大寿へ向けている。ゆっくりとした動きで、龍の頭が大寿の方へ寄る。淡い藤色の身体をしている。大寿から数十センチほど離れたところで龍の鼻先が停まった。人の背ほどの大きさをした、縦に割れている瞳孔は大寿をじっと見ていた。口から赤い舌先がちろちろと覗いている。ふしゅーるる、と呼吸なのか鳴き声なのか良く解らない音が聞こえる。大寿の心がざわめいている。
 大寿は即座にそれが三ツ谷だと理解した。悪魔が想像上の生き物の形を取ることは滅多にない。悪魔が許容量を超えるほどの力を得ると龍やドラゴン、グリフォンなどの幻獣になる説がある。それほどの力を得るには、他の悪魔から力を奪ったか余程魂の尊いやつの尋常でない願いを叶えたかの二択だ。近年では、具体的には国を作るような困難な願いだ。困難な願いを叶えるとその分報酬は強大なものとなる。
 何かがあっていなくなった乾と九井。許容量を超えるほどの力を得た三ツ谷。悪魔が力を得る方法。まさか、と大寿は言葉を墜落させた。

「食ったのか、乾や九井を……!」

 ぐぱ、と三ツ谷が大きな口を開く。大寿は地面を距離、横側に跳ぶ。ばくんと大きな口が閉じられた。大寿がぼうっとその場にいれば食べられていただろう。
 大寿は咄嗟にガラクタの上に墜落させられた殺虫剤とライターを引っ掴んだ。躊躇わずにライターを着火し、殺虫剤を龍に向かって噴射する。簡易的な火炎放射器だ。当然悪魔に効くとは思えない。直ぐに投げ捨ててガラクタの山の後ろに身を隠す。龍が天を仰ぎ、咆哮した。鼓膜が破れそうなほどの大きな音だ。大寿は耳を塞いで歯を食いしばる。龍が天に向かって駆け出した。そのまま踊るように駆けている。口をかぱりと開き、咆哮すると同時に雷が発される。それは不規則に、教会の敷地よりもずっと外にある木や地面にも墜落した。大寿には三ツ谷が得た過剰な力を制御できず暴走しているように見えた。何かのたうち回っているように見えた。

「やめろ三ツ谷!」

 届く筈が無いと理解しているのに、大寿は叫んだ。これだけの強力すぎる力であれば、何かしら影響はあるだろうし、もしも三ツ谷が悪魔の領域外に出てしまえば現実にいる世界が混乱に陥る。
 龍は進行方向を変え、大寿に目掛けて走っていく。低空で滑るように飛んでいる龍の爪が大寿を裂いた。咄嗟に庇ったが、衝撃は気を失いそうなほどに凄まじい。ぶつかった衝撃で聖水の入っていた瓶が割れた。たった一撃。たった一撃であったはずなのに、大寿は立つことが難しい程の大きなダメージを受けた。ふらふらになりながらもどうにかして立ち上がる。視界がぐらぐらと揺れる。幸い利き腕は折れていない。
 あの龍は、大寿自身を欲している。ならば、自身に向かって口を開いたときに銀の弾丸を打ち込めば何かしら勝算はあるかもしれない。大寿はそう判断し、無防備に立つ。龍が空中でくるりと一回転をした。そのまま真っ直ぐと大寿に向かって飛んで来る。ぐぱぁと、口が大きく開かれる。大寿は片目をぎゅっと細くさせ、真っ直ぐと睨む。唾液でてらてらと光る口腔が凄まじい速度で近付いていく。
 目の前に、金の三つ編みが入り込んだ。大寿は目を見開く。辮髪の男だ。

「テメェ何してんだコラ!」

 男が消えた。直後龍が弾き飛んた。龍が地面を滑りながら遠退いた。龍はぐっと姿勢を正して空中にいる何かを見据える。大寿は目を見開いたまま固まった。龍の視線の先にいたのは先程の金の辮髪の男だ。右手をぷらぷらと振っている。その男はどうやら龍を殴り飛ばしたようだった。龍が口を開き、咆哮する。怒っていることは何となくであるが理解できた。龍の入れ墨を入れた辮髪の男と、いつか見たことのある悪魔が空中で立っている。闇色の目には何の感情も乗っていない。マイキー、と大寿はあだ名を口にした。マイキーはいつかのようにたい焼きを咀嚼している。食べ終わったのか、手をぱんぱんと音を立てて叩いている。

「三ツ谷、そういうの辞めようって決めただろ」

 まだタケミっちとヒナちゃんの結婚式挙げれてねぇんだから、とマイキーが話す。だが龍は歯を見せて威嚇することをやめない。仕方ないなとマイキーは溜息を吐いた。一度俯き、顔を上げた。大きくはない身体から黒い靄のようなものが一気に放出される。そのおどろおどろしい靄のようなものはマイキーの身体を包み込み、やがて消えた。
 とん、と軽快にマイキーが地面を蹴った。大寿の目にはマイキーが消えたように見えた。刹那、龍の頭が地面に叩きつけられた。どん、と低くも大きな音が響き、大寿は振動により倒れ込む。砂埃がもうもうと立ち、視界が阻まれる。乾いた風が吹き、砂埃を取り去った。龍の姿は何処にもない。マイキーと、三ツ谷を担いだ辮髪の男が立っているだけだ。

「じゃあ|魔界《あっち》に連れて帰るワ」
「おー、ケンチン頼んだ!」

 オレも少ししたら帰るよとマイキーが言うと辮髪の男は頷いて消えた。マイキーが振り返る。久し振りと何処か穏やかな笑みを浮かべさせた。大寿はマイキーに銃口を向ける。だがマイキーは何も気にしていないようだ。

「乾や九井は消えてねぇよ」

 ぴくりと大寿の眉が跳ねた。三ツ谷に食われて消える直前に魔界に帰ったみたいだとマイキーは続けている。その情報が嘘か本当かは解らない。大寿は確かめる術がない。悪魔の甘言である可能性だって十分にある。暫くこっちには帰って来れないだろ、とマイキーはなんてことのないように言う。大寿は、悪魔の言う暫くなので恐らく生きている間は無理かと何処かぼんやりと理解する。

「で? 使い魔いなくなったけど、どーする?」

 エクソシストサマ、と明らかに鼠を追い詰めるような猫の目をしてマイキーは口元に弧を描かせる。

「|三ツ谷《アイツ》も暫くは動けねぇし……ケーヤクしてやろっか?」
「問題ねぇ」

 大寿は吐き捨てた。大寿は銃を降ろした。この悪魔に敵意や害意は見られない。それでも視線は絶対に外さない。真っ直ぐと射貫いている。

「オレはオレの仕事をするだけだ」

 体力ももうほぼないだろうに、瞳は悪魔を祓う意思を隠さない。へぇ、と闇を融かし込んだ眼が緩く弧を描かせる。退屈を嫌う、悪魔らしく酷く楽し気な表情だ。

「まあダチが迷惑かけたし、詫びに家までは送ってやるよ」

 ごうと吹き荒んだ風に視界を失う。再び大寿が瞼をあけると、そこは見慣れた自宅の前だった。間抜けヅラをした弟が大寿を見てぽかんと口を大きく開けていた。
 それから大寿はエクソシストとして生きて、生涯誰かを伴侶とすることもなく寿命で肉体は死を迎えた。大寿の魂は永い時を流れ、そして新たな肉体を経たのだった。
 大寿は部屋の窓を開けた。青々とした葉の隙間から柔らかな陽の光が差し込む。昨夜ざんざんと降り注いだ雨露が葉から静かに水溜りに落下した。子供らしくふっくらとした頬は血色が良く赤みを指している。金の吊り目がちの目がぱち、と瞬きをした。飼い犬と飼い猫にリードを着けて、自身も出掛ける準備をする。妹を犬と猫の散歩に誘ったが、妹と弟は現在放映されているテレビに夢中だった。母親に一人で行ける、と尋ねられ、大寿は勿論と答える。大寿は小学校に上がる前から一人でお使いだって行ける。ピカピカのランドセルや散歩鞄等を置いているスペースから散歩鞄を取る。行ってきますと大寿は行って、二匹のペットと扉から飛び出た。水溜りがあちこちにできている。街が昨夜の雨で洗われているように見えた。
 イヌピー、ココとそれぞれの名前を呼ぶと二匹とも嬉しそうに尻尾を振る。大寿はその二匹が妹や弟たちと同じように大切だ。保育園に上がる頃に大寿が拾って家族になった。大寿はいつもの散歩コースを歩いていく。青い長靴を履いておきながらも、水溜りを避けて歩く。イヌピーは全く気にしていないのか、足先を水溜りに浸けて我が道を歩いていく。大寿が水溜りから退かせようと軽く引っ張ると、渋々と言ったように湿った地面を歩く。ココは大人しく大寿の足元をすいすいと歩いていく。にゃあ、にゃあと鳴く様子を見て、イヌピーと会話しているのだろうと大寿は想像した。
 平坦な道を歩き、教会の角を曲がった。その先にある公園でいつも二匹を遊ばせてから帰るのがルーティンだった。公園にはいつも大寿と同じように散歩をしにきた人や遊んでいる子供がいた。植木や花の管理もきちんとされており、滑り台やブランコといった遊具もある公園はある程度賑やかだ。
 公園に入り込むと、普段ならイヌピーとココは思い思いに駆け出そうとするのにそうしない。大寿は不思議に思いながらもトイレをさせるために木のあるところへ歩いていく。公園は、いつもからでは考えられないほどに静かだ。誰かが忘れていったのか黄色のボールがぽつんと花壇に置かれている。皆雨上がりであるしテレビでも見ているのだろうと大寿はさして深刻に考えなかった。
 花を咲き終え、青々とした葉を付けている桜の樹の下で男が立っている。淡い色の短髪だ。この辺りでは見ない。引っ越してきたのだろうか、珍しくも迷い込んできた観光客なのだろうか。大寿は目があったので会釈する。男が大寿の方へ歩み寄ってきた。
 イヌピーとココが低く唸る。大寿はイヌピーとココに繋がっているリードを強く握った。こら、と言ったが二匹とも大寿を見ない。人を傷付けることはしないが、万一そうされると大寿にとってとても困ることだ。

「久しぶり」

 どこかで聞いたことのあるような声だ。大寿は辺りを見渡した。公園には自分以外おらず、どう考えても男は自身に話しかけている。男の方を見ると、男は自身の目線に合うようにしゃがみこんでいる。思ったよりも距離が近く、大寿は思わず後退る。

「会いたかったよ、大寿くん」

 大寿は瞬きをした。この見知らぬ男に名前を告げた覚えはない。ざわざわと心がざわめく。誰、と尋ねたいが何も話してはいけない、応じてはいけないと脳の中心にいる誰かが喚いている。
 イヌピーが何度も吠える。ココが毛を逆立たせ威嚇している。逃げなければいけないと理解しているのにどうすれば良いのか解らず足が竦んでいる。淡い朝焼けの空を切り取った眼は大寿が欲しいと喧しいほどに叫んでいる。
 男が大寿に手を差し伸べた。大寿は肩を跳ねさせる。恐怖感から目をぎゅっときつく瞑る。

「イヌピー、頼んだ!」
「任せろ!」

 聞き慣れない、けれど安心させるような声が聞こえた。誰かが舌を打つ音がする。ふわりと大寿の身体が浮く。大寿は目を見開いた。先程まで握っていたリードは無く、黒髪の男に抱き上げられている。地面が随分下にいた。先程までしゃがみこんでいた男は立ち上がり、大寿自身をじっと見ている。男の側に金髪の男が立っていた。金髪の男が何も無い所から棒状のものを取り出し、男の脳天めがけて振り上げる。男はそれを腕で受け止めた。その二人の姿がどんどん小さくなる。

「待て、おい、待て!」

 大寿は黒髪の男の肩を何度か叩く。黒髪の男は空き地に着地した。やはりというべきか、人は誰もいない。黒髪の男は大寿を下ろした。しゃがみ込み、目線を大寿の高さに合わせる。良く聞いてくれ、と大寿の小さな両肩に手を置くいた。自身のペットであるココが大寿の脳裏を過る。

「ココ……?」

 有り得ないことなのに、そうだよ、と男の頬に寂しさが過った。じゃあ、先程の金髪の男は、と大寿の聡い脳味噌は一つの解に辿り着く。でもどうして犬や猫が人の姿に、と疑問が溢れる。

「オレたちは悪魔だ」
「悪魔……?」

 大寿は怪訝そうに片目を細めさせた。教会で度々聞いたことのある、想像上のものだ。人々の心には常に悪魔がいるから好きにさせないように自制しろというものだ。大寿は普段であれば否定しただろう。ココと名乗る男を不審者として認め、この場から去っただろう。だが立て続けに起こっていることが非現実的であるために否定できない。

「あの男も悪魔で、端的に言って大寿が……ええと、今の肉体になる前からずっと昔から大寿を狙っている」
「なぜ?」

 子どもの質問にココは眉を潜めさせた。色々あるんだ、と様々な感情を殺した声が子どもの鼓膜を震わせる。大寿は理解できなかったが、納得した。納得させた、とも言える。大人には子供に言えないこともそれなりにあることを大寿は理解しているつもりだ。

「大寿、オレたちに協力してほしい。そうでないと大寿はあの悪魔に奪われてしまう。そうなると大寿は二度と家族たちには会えなくなる」

 ココの言葉に大寿は瞬きをする。脳裏に妹と弟が過る。自分がいなくなってしまえば誰が二人を守るのだろうか、家族に会えなくなるのは嫌だと率直な意見が主張する。しかしそれは優秀な長男である大寿の口から声として出ることはない。ココは大寿の反応を見て困ったような顔をした。

「信じられないと思うけれども、オレとイヌピーを信じてほしい」
「信じる」

 大寿の言葉にココは目を丸くした。金の目はいつかの大寿のように真っ直ぐとココを見詰め返している。

「オマエの言う事が嘘なら、人がいない現象に説明がつかない。他人なら、あの悪魔からオレを庇う理由がない。オマエがココなら、オマエはオレの愛する家族だ」

 それだけで信じられるとはっきりと言葉を返す。
 ココは息を呑んだ。過去、大寿に出会っていた頃はエクソシストとしての考えを身に着けたあとだった。だが、今回の生についてはまだその段階に達していない。ゆくゆくはいつもの生と同じようにエクソシストになるのだろう、大寿の魂はエクソシストになるべきだからとイヌピーとも話していた。そのときが来るまで、二人は大寿の存在を悪魔たちから隠しながら側で見守れるように彼のペットとして生きることにした。契約しなくても触れることができればその極上の精気を得ることはできる。大寿が保育園や幼稚園を卒業し、妹や弟の面倒を看ている様子を見て、エクソシストになるべきだという考えは自身たちの思い違いかと思えて来た。いつもイヌピーとココは大寿を見ていた。見れば見るほど、どうすれば良いのか解らなくなってしまった。選べるのならば、何も前線に立たなくても、平穏に生きれる方法があるんじゃないか。そう思えるようになってしまった。

「本当の名前は? 悪魔との契約には双方の名がいるんだろ?」

 大寿が小さな手を差し出す。本を読むのが好き、というよりも幼い妹と弟がいるからそう選択せざるを得なかった子供が孤独を埋めるために読み漁った本から得た知識を的確に選ぶ。
 小さな子供には把握できないほどの大きな選択だ。選んでしまえばもう二度と元の生活には戻れない。それを選ばせているのは他でもなく、彼の幸せを願っていたココだ。仮に大寿が契約することを選ばなかったとしても、三ツ谷が見付けてしまったから堂々巡りへとなってしまう。

「オレは九井一だ。イヌピーの本当の名は、乾青宗」

 協力してくれてありがとう、と九井は差し出された小さな手を固く握り締めた。二人を中心に大きな円が形成される。やがて九井が立っている場所から反時計回りに大寿では読めない文字が描かれていく。

「これから大寿はオレたちと契約をして、大寿があの悪魔に取られないようにする。イヌピーは今その時間稼ぎをしている筈だ」

 なるべく大寿が怖がらないようにと九井は説明した。大寿は九井の手をきつく握り締めている。初めて見る現象に目を見開きながらも下唇を噛み締めている。その顔を九井はそれなりに見たことがある。なにか不満があったり言いたいことがあったりしたときに我慢しているとき――具体的には、両親が妹と弟を優先しているときの――顔だ。恐怖を気取られまいようにしているのだろうと九井は理解する。この世界でも長男である彼は常に妹と弟を気にかけていた。自身が怖がればより幼い二人にも伝播することをよく知ってしまっているのだろう。せめて自分たちの前では子供らしく伸び伸びとしてくれたらと切望するが、信頼関係の殆どない今では難しいだろう。そういうところが、三ツ谷にとって眩しいもののように映るのも納得したくないが理解は出来る。
 九井の口から水中で泡が弾ける音がする。大寿は理解できないし発音できない音だ。それでも契約に関するものだろうと想像できた。
 完成した魔法陣が一際強く輝く。光を失ったそれはやがて消えて無くなった。契約が出来たのだろう。大寿は、薄らぼんやりと乾の存在を感じられる方を見た。そちらから何となく嫌な気配もする。九井が大寿を抱き上げる。大寿は大人しく九井にしがみついた。

「九井、乾を迎えに行くぞ」
「了解」

 九井は指を鳴らす。景色があっという間に移り変わり、大寿の前で、金髪の男――恐らく乾だろう――と先程の悪魔が丁度反対方向に飛び退くところだった。

「大寿……!」

 乾が僅かに顔を明るくさせた。それと対称的に悪魔が不愉快そうに顔を歪めさせる。あーぁ、とわざとらしく溜息を吐いた。

「本当、嫌になるよね。イヌピーくんたちとオレがしてることってきっと大差ないだろうに」
「自分の欲望しか考えてないヤツが何をほざいてんだ」

 乾が顔を険しくさせ、言葉を強く吐いた。あーぁ、と悪魔が溜息を再度吐く。ぱち、と目が大寿と合った。ぎくりと身体がどうしても強張ってしまう。悪魔は人懐っこそうな笑みを浮かべさせる。その笑顔が空恐ろしく感じた。

「オレは三ツ谷。じゃあね大寿くん。また会いに行くよ」
「逃がすか!」

 乾が槍を空中から取り出し、三ツ谷に向かって投げ放つ。ぶつかるよりも先に三ツ谷の身体が崩れるように消えた。九井が安堵したのか溜息を吐く。乾は舌打ちをする。少しして、九井の隣に立った。九井が乾に帰らないとな、と笑いかける。そうだなと乾は同意した。

「改めて大寿。オレは乾青宗だ。イヌピーのままでも良い」

 握手を求められ、大寿はそれに応じる。繋いだ手から何か電流のようなものが走った。契約完了した証なのだろうと察する。

「じゃあ大寿、目を閉じて。いつもの景色を思い出せば良い」

 そうしたら元の世界に戻れるからと九井の手が大寿の視線を遮った。不思議と恐怖感はない。大寿はいつもの景色を思い出す。それは鮮明に思い浮かんだ。少しして九井の手が退けられる。眩しさに何度か瞬きを繰り返すと、普段見る子供たちが遊んでいる景色だ。

「この領域内と外とでは時間の流れが違う。普通に散歩が終わったくらいになるだろう」

 乾の言葉に大寿は思い出したような顔をして、眉尻を下げさせた。どうした、と乾も九井もきょとんとする。

「イヌピーとココがいなくなったこと、どう説明したら良い?」

 沈黙の後、ああ、と乾は声を上げた。乾と九井がお互い目を合わせ、頷く。ぽふん、と気の抜ける破裂音と共に煙がもうもうと立つ。少しして現れたのはいつものペットであるイヌピーとココの姿だ。二人の身体に出掛けるときに着けたリードがそのままあった。大寿はそのリードをしっかりと握りしめた。ココが手提げを咥えていたのでそれも手に取る。イヌピーの背中を撫でるといつもみたいに身体を押し付けさせる。ココが大寿の前に立ち、にゃあんと声を上げる。大寿がイヌピーの背中から手を離すとイヌピーは少し不服そうな顔をしてココを見ている。

『この姿で過ごすから大寿は心配しなくて良い』

 先程の九井の声がした。大寿はココをじっと見詰め返す。

「その声、オレ以外には聞こえないのか?」

 声を潜めさせて三角の耳にそっと吹き込む。ココの黒い尻尾がゆらりと揺れる。

『聞こえないな。だからあまり大きな声で話すと動物と話してるってことになる』
「解った。気を付ける」

 それじゃあ取り敢えず帰ろうかとココが言う。大寿は頷いて歩き慣れた、けれど少しいつもと違う道を歩いて行った。

2023/11/27

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