アンハッピーリフレイン

一
　十二の冬、斑目獅音は自由を得た。
　あるボロアパートの一室で獅音は硬直していた。獅音は短い呼吸を何度も繰り返し、両手で持ったガラス製の灰皿を落としてしまわないように気を付けて持つ。瞬きをするのも忘れて、先程まで自身を凌辱していた男を見下ろした。男は目を見開いたまま動かないでいる。獅音の手に持っている灰皿から赤い血が眼球に落ちたが微動だにしない。
　突発的な行動だった。男に組み敷かれながら、膜を通したようにぼんやりとした子供の声を聞いた。かけっこをしているのだろうか、待ってとはしゃぐ子供の声。おせーよと笑う楽しそうな声。奥を穿たれ獅音は首を仰け反らせた。涙に濡れた眼球に青い空が反射する。獅音も走りたいと思った。笑って、青空の下を、芝生が生えている地面を駆けたいと願った。獅音の足先は空を切る。あ、あ、と声帯が震える。男の首に腕を巻きつかせる。上体がぴたりと合わさる。汗が浮かぶその首筋に、獅音は思い切り噛み付いた。その状態のまま顔を引くとぶちぶちと嫌な音が響いた。太い悲鳴が響く。顔を叩かれて獅音は布団に倒れ込んだ。男が首筋を押さえて獅音を睨みつけた。何か呟いていたが、獅音には届かない。聞き慣れた罵声だ。逆上した男が獅音との距離を詰める。獅音の手が咄嗟に近くにあった灰皿を掴んだ。あとは、親が教えてくれたように頭を何度も殴ったのだった。そして冒頭に至る。
　獅音の親は獅音が大切だった。アルファと交尾をさせてアルファを産ませ、補助金を得ることが出来る。また、アルファの子供を欲しがる人たちは多い。そう言った人たちの子供を獅音に産ませた。それに金を出してまでオメガの子供を抱きたがる物好きなアルファも多かった。自身が汗水垂らして勤労に励むよりもずっと簡単に大金を得ることが出来た。ここ数週間程獅音が妊娠できなくなってしまったので、アルファ以外の大人にも売り出すことにした。子供を抱きたがる人は尽きない。それがオメガであれば猶更だ。獅音の親は獅音が大切だった。
　獅音はこれからどうしようかと思った。ふ、と息を吐く。親の元へ戻りたいとも思えない。このまま何処か走れるところまで走りたい衝動が薄い身体の中で暴れまわっている。それは素敵なことのように思えた。そうしようかな、とゆっくりと立ち上がる。股関節やら性器やらが鈍く痛む。
　前触れもなく、隣部屋と繋がる扉が開いた。殆ど毎日顔を合わせる男と目が合う。獅音は素早く駆け寄り、鳩尾にためらいなく殴りつけた。男は何か苦しそうに呻いて膝をつく。獅音は躊躇わずに無防備な脳天目掛けて腕を振り下ろした。それを何度か繰り返していると、先程まで獅音を抱いた男と同じように動かなくなる。獅音は同じことを返しただけだった。ただちょっと言うことを聞かせるにはきっと力が足りないから、先程使った灰皿を使っただけだ。ふ、と安堵感から息を吐く。何か大きな仕事でもしたような、どこまでも晴れやかな気持ちだった。
　獅音はふらふらとした足取りで、男の死体から離れる。綿が草臥れている布団にかけられたシーツの汚れていない場所で顔を拭った。べったりと赤い色でシーツが汚される。そのまま自身の身体に付着している汗やら涙やら他人の体液やらを拭う。震える手でシャワールームに移動し、シャワーを浴びて胎内に残る残滓を掻き出す。生理的に受け付けなくて仕方なかった。出来ることなら触れられた場所一つひとつを刃物で薄く削ぎ取ってしまいたかった。交尾をする部屋の隣にある部屋に行き、男の服を着た。無造作に置かれていた紙幣を引っ掴み、今日はきっと寒いからと男のダウンコートを着る。玄関を開けて、獅音は外に出る。冷たい空気が獅音の頬を刺した。獅音はコートのファスナーを閉めて顔を埋めさせる。背丈は同年代の子供より少し高いが、大人用の服に着せられた不格好な格好だ。
　獅音は部屋の外へ出る。コンクリートで出来た共同の階段を下りる。どこかから今日の夕飯なのかカレーの匂いがした。子供がきゃらきゃら笑う声が聞こえる。早く寝なさいと叱りつける女の声が響いた。獅音はアパートの敷地外へ出た。真っ暗な道に街灯がぽつぽつと灯りを照らしている。それは獅音が進むべき道を示しているように見えた。

2023/10/25