アンハッピーリフレイン04


 初雪がちらつき始めた頃、イザナの口から吐き出された世間話が獅音の皮膚に赤い線を引いた。

「花垣の所に赤ちゃんが産まれたって」

 マイキーが毎日楽しいのだと話していた、とイザナはコートを脱ぎながら獅音に話す。窓の外で枯れた葉が風に吹かれて揺れている。今頃花垣の家にベビーグッズが溢れてるんだろなぁとイザナはくつくつと喉を震わせている。
 獅音はゆっくりと瞬きを一つする。獅音は自身が着ている、ワンシーズンだけ着れたら良いやで購入したトレーナーの袖にコーヒーのしみが出来ていることに気付いた。指先でコーヒーのしみを摘んでみるが、大分前にできたもののようだ。

「そう、なんだ……お祝いしなきゃな」

 何をやっても誰かと被ってそうだと笑うイザナにそうだなと何処か上の空で獅音は相槌を打つ。イザナは夕飯の鍋を温めながら何処か幸福そうな顔で、エマもまた産むのかなぁと話している。獅音はぎこちなくもそうなんじゃないかと頷いた。去年のイザナの妹夫婦の家から送られた年賀状に、真っ白いお包みに包まれていた赤ちゃんが写っていた。言外にオマエはいつ産むんだと責められている気持ちになる。喉に何かつかえている。獅音はそうっと自身の喉を、チョーカー越しに触れる。
 イザナが温め終えた鍋を食卓に置いた。元々多くない獅音の食欲が更に消えて行く。食わねぇのかと聞かれても獅音は反応を返せなかった。イザナは形の良い眉を潜めさせながらも、器に豆腐や春菊、豚肉を入れていく。黙々と食事をしている様子を、獅音は見れず俯いた。
 隠し通せるものではない。黙っていたのかと騙していたのかと失望されたくなかった。獅音は顔を上げた。

「イザナ、大事な話があるんだけど」

 縺れながらも言葉は獅音の口から転げ落ちる。イザナが不思議そうな顔をした。何だ、と尋ねる声が酷く恐ろしい。獅音は自身の衣類をそっと摘む。

「……オレ、赤ちゃん、産めない」

 薄紫の目が、いつかのように丸くなった。
 獅音は幼い頃に受けた仕打ちも含めて全て話した。変に隠してもイザナの方がずっと聡いためにどの道全て明るい所に引き摺り下ろされることを知っていた。それならば最初から洗い浚い出してしまった方が良い。
 一通り話し終えて獅音は息を吐く。袖についたコーヒーのシミが広がった気がする。指先でその部分を揉むが薄れることも広がることもない。

「……ふぅん」

 何か考えるようにイザナが言った。薄紫の目は何処か見ている。その後イザナは部屋に籠もってしまい、それから出てこなかった。ほんの数口食われただけの鍋と食欲のない獅音が残されたのだった。
 その次の日にイザナは家に帰って来なくなった。本部にきちんと出勤しているらしいが、現場で働いている獅音はイザナの顔を見ることも出来ない。電話越しの武藤の声が何かあったのかと問うた。その質問が仕事でなのかプライベートでなのか解らず、仮にプライベートのことだとしても言うわけにはいかず、何もないと獅音の口は平静な音を産んだ。
 獅音は一人きりの家に帰宅した。電気を付けると二人分の家具がどこか余所余所しく獅音を出迎える。捨てられたのだろうかと後ろ向きの可能性がぽかんと浮かび上がる。清潔さの漂う洗剤とイザナの匂いがする衣類はクローゼットにある。きっと何か理由があって帰って来ないのだろうと自身に言い聞かせる。ベッドの下にある暗闇からオマエは捨てられたんだよとにちゃにちゃした声がした。
 イザナが帰って来なくなって、何となく息苦しくなるような冬の雲が空を覆い始めた。もうすぐ雪でも降るのだろうかと獅音は白い息を吐きながら考える。二人分の夕飯を一人で三日ほど分けて食べるようになってからそれなりになる。シフト制で平日に休みとなった獅音は宛もなく町をぶらついていた。クローゼットにあるイザナの冬用コートを思い出し、取りに来るのかなとぼんやりと思う。信号を待ちながら赤い指先同士を擦る。急に寒くなってきたなと指先に息を吹きかける。

「あ、獅音くん。久し振り」

 声のする方を見ると東京卍會の総長代理が立っていた。武道の隣にいる女が番なのだと獅音は直ぐに理解した。確かヒナちゃんと呼ばれていた。
 武道は獅音自身と大して親しくもないのに、見掛けたから声を掛けたのだろう。同じオメガでありながらも自身と全く異なった人格も、その優しさというより甘さも獅音は昔から好きになれない。
 そういえばとはたと思い出した。この二人は運命の番だ。おとぎ話や伝説などではなく、現存する貴重な二人だ。ずるいなぁと身体に痣が残る獅音が細い声で呻く。

「あかちゃん……」

 殆ど無意識に獅音の口から音が落ちた。獅音の視線の先にベビーカーに包まれてすやすやと眠る赤ん坊がいた。パステルイエローの地にひよこが描かれた毛布が掛けられている。そういえば、産まれたからお祝いをやるという話があったのを思い出した。結局お祝いはどうなったのだろうか。

「獅音くんもお祝いありがとう。また返すから受け取ってほしいな」

 幸福そうに武道が笑う。獅音はうんともううんともつかない音を呟く。お祝いを渡した記憶はないがイザナが何かやったらしかった。
 良かったら抱っこしてみる? と武道に聞かれ、獅音はぎょっとした。

「いや、オレは……」
「そう? マイキーくんとか千冬が抱きたがるから……」

 いや、と獅音はもごもごと口元を不明瞭に動かす。武道は、赤ちゃんに顔を寄せ、頬を突いて獅音くんだよ、と優しい声で話し掛けている。
 ふっくらとした頬は血色が良く、瑞々しい桃を想起させた。両親から愛情、というものを存分に受けているのが少し見ただけでも理解る。
――例えば、今この赤ちゃんを硬いアスファルトに叩きつけたら、少しは花垣にもオレの気持ちも理解できるだろうか
 獅音の手が赤ちゃんに伸びる。血色の良い赤ちゃんはすやすやと寝息を立てている。
 自分だって本当なら産めていた。本当ならイザナとの赤ちゃんを胎内で育てて産んでいた。役に立てるアルファを産めていた。そうしたらきっとイザナは自身の側にいてくれた。何でオレばっかりと顔や脚に大輪のような痣を作られた幼い獅音が喉が張り裂けんばかりに叫ぶ。何でオレばっかり、と獅音は舌の上で言葉を転がした。
 眼の前にいるオメガは獅音と違い、ぬくぬくと過ごして来たのだろう。酷く恨めしかった、酷く羨ましかった。自分だけが世界中の不幸を集めて出来た結果のようなのに、武道は世界中の幸福を集めて出来た結果そのものだ。オレだって、オレだってと獅音は喉を掻き毟りたくなった。衝動のままにベビーカーをひっくり返すことも赤ちゃんを引っ掴んで投げることも出来た。
 獅音の指先が赤ちゃんに触れる数センチ手前で動きが止められた。獅音の手首を日向の手が捉えたのだ。獅音ははっとして、ぎこちなく日向を見る。武道がヒナ、と僅かに不安そうな声を上げた。ねぇ、と日向の声が獅音の背筋にナイフの切っ先を当てる。

「タケミチ君とヒナの子どもに、何をしようと、してたの?」

 アルファが敵意を僅かに見せた。言葉をゆっくりと区切りながら静かに紡ぐも怒りや不信感などの感情はありありと感じられた。
 ゾッとした。
 アルファの敵意に。獅音自身にあった衝動に。何も解らないのかどうしたのとほざく武道に。眠り続ける赤ん坊に。
 獅音はぎこちなくも首を横に振る。一歩、二歩、と下がれば日向の手はゆっくりと離れた。獅音の手首はまだ日向に掴まれているような心地がする。心臓が思い出したように大きく跳ねて駆け回る。

「オレ、オレは……何も……」

 何もするつもりがないなんて、きっと嘘だ。首を緩やかに振りながら、獅音は後退りする。武道だけが不思議そうな顔をしていた。
 獅音は踵を返した。弾かれたようにその場から走り去る。背後から武道が自身の名を呼ぶ声が聞こえたが、返事する余裕なんてなかった。
 獅音はがむしゃらに走る。行き当たりばったりで角を曲がり、信号を駆け抜ける。どこまで走ってもあのアルファが獅音を威嚇しているように感じた。
 小石が獅音の足に突っ掛かった。そのせいで獅音は盛大に転ぶ。顔をあげるとイザナと獅音とが借りているアパートの前だ。帰巣本能はここを帰るべき家だと思っているらしい。獅音は立ち上がり、衣類についた砂を手で払う。覚束ない足取りで一度部屋に入り込んだ。灯りのない部屋は獅音を見ない振りしている。獅音はソファに倒れ込むように座った。置きっぱなしのイザナの上着から香っていたはずのにおいは随分薄くなってしまっていた。
 もしもあのまま、日向が獅音を止めなかったら、獅音は赤ちゃんに酷いことをしただろう。
 出来損ないのオメガが運命の番の子を傷つけた。そんなことをすれば二人を大切にしている万次郎がまず許さない。武道を好いている東京卍會の面子たちが許さない。きっと世間だって許さない。ベータやアルファで殆ど構成されている世間やそれらから収入を得ているパパラッチからすれば、良い読み物になるだろう。
 かつて幼い獅音を悍ましい環境に陥れていた両親もアルファの大人たちも、誰も裁かれることも罰されることも決して無いのに。

「っう、ふ、ぅ゛……」

 震える唇の隙間から声が漏れた。ぼたぼたと零れる涙はマフラーに吸い込み色を濃くさせる。涙を拭ってくれる人などいない。獅音はイザナに会いたかった。ただ側にさえいてくれるだけで良かった。だが獅音はイザナに合わせる顔がどこにも無い。資格すらもない。獅音はゆっくりと顔を上げる。鍵をかけていなかった玄関が、ゆっくりと開いた。隙間から冷たい風が吹いている。ぎぃ、ぎぃ、と蝶番が軋んだ笑い声を立てている。それは獅音を手招きしているように見えた。獅音は財布を持った。玄関扉の外を見ると真っ暗な景色が広がっている。獅音自身が進むべき道だ。何処か確信めいたものが獅音にはあった。獅音は一歩歩み出す。冷たい風が獅音の背中を押した。
 そうして獅音は忽然と姿を消した。

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