まほろばはいつも背中の後ろから

！何もかも解決したあと
　スズメの鳴き声で緩やかに一郎の意識が浮上する。
　隣で左馬刻が寝息を立てている。昨日の暴れっぷりが嘘のようだ。左馬刻の寝顔を見て一郎は口元を綻ばせる。昔、簓たちとつるんでいた頃では考えられないものだ。取り敢えずと落ちている下着を拾い、履いた。クローゼットにある自分の服を適当に取り、ごそごそと着ていく。自分の脱ぎ散らかされた服を拾い、左馬刻のを拾おうとしてとまる。少し考えて、拾わないことにした。あとで聞いてから洗濯機を回そうと結論に至る。
　一郎はベッドの側に戻り、左馬刻を見下ろす。左馬刻はじっと見つめられているのに静かに寝息を立てている。一郎は白い頬に唇を落とし、部屋から出た。
　洗濯物を洗濯機に入れ、身支度をする。顔を洗うときに鏡を見て、えらい男前になって、と簓に言われたことを思い出す。昨夜蹴られた箇所が腫れたり痣になったりしている。今回歯形はなかった。今回も凄かったなと思いつつ、そっと己の右腰に触れる。ずき、と鈍い痛みが走った。行為に更けているときはアドレナリンやらが出ているのか痛みに鈍くなってしまう。一度骨を折ったことがあったが、それ以降彼女なりに手加減をしているようだが、見る人見る人は大抵目を見開く有り様だ。一度簓が、顔はやめときと窘めていたが一郎自身は別にどうだって良かった。左馬刻がくれるものなら文字通り何でも欲しかったから。
　台所に立ち、朝食の準備をする。簓から貰ったコーヒーメーカーに豆を入れてセットする。冷蔵庫を開けて、ちりめんがあったのを思い出し、大根とおろし金を手に取った。大根おろしにちりめんを入れる。あとは醤油でも垂らせば立派なおかずだ。目玉焼きを焼いて、その傍らで白ご飯を電子レンジで温める。左馬刻の分を考えて、ちりめんくらいなら食べるかと思い至る。
　食事の準備を終え、一郎はマグカップにコーヒーを入れた。冷蔵庫から牛乳を取り出し、少しだけ注ぐ。一般的なコーヒーのブラックは飲めなくもないが、左馬刻が好む味はかなり苦みが強い。その為一郎は牛乳を少しだけ垂らす。お子ちゃまだなァと鼻で笑われたが、そのうちいつかブラックで飲めるようになる予定だ。
　ぺた、ぺた、と裸足の足音が聞こえる。左馬刻が眠たそうな顔をしながらキッチンまで来た。手近にあったからと一郎のシャツを被ったのだろう。ゆるりとしたシルエットのシャツから伸びる生脚が眩しい。白い内腿に自身が付けたキスマークがちらりと見えて一郎は危うく牛乳パックを握り潰すところだった。びちゃ、と牛乳が床に落ちた。一郎は小さく溜息を吐く。幸い牛乳パックはいくらか凹んだが、残りも僅かであるし、まだ使えそうだ。一郎は凹んだ牛乳パックを冷蔵庫に戻し、ティッシュを数枚取って零した牛乳を拭く。
　左馬刻は特に何か言うわけでもなく、ラックからマグカップを取り出し、コーヒーを注いでいる。

「ンだこれ」

　頭上から平坦な声が聞こえた。かち、とコンロに火が点けられる。フライパンに乗せられたままの目玉焼きが熱され文句を言っている。

「ちりめんを大根おろしとポン酢で和えたやつ。ちりめん、貰ってさ。寂雷さんが言ってたろ、朝ご飯はちゃんと食べねぇと……」

　立ち上がった一郎の言葉が不自然に途切れる。思ったよりも、目線がかなり低い。一郎は瞬きを繰り返す。左馬刻の丸い頭頂部を見て、足元を見る。裸足の足先が見えた。別に彼女は背伸びをしている訳でも脚を曲げている訳でもない。普通に立っているだけだ。
　そう言えば普段履いている靴は厚底でヒールがあるものだっけとぼんやりとした声がどこからか聞こえた。要するに普段盛りすぎているだけだ。

「ンだよ」
「いや、その……」

　見上げられた顔は普段見ないせいか酷く一郎の心を揺さぶる。
　一郎のシャツは彼女の身体よりもサイズが大きく、胸元もかなり大きく開いているため、デコルテがよく見える。あ、谷間見えそう、と気付いた瞬間一郎の右手が拳を作り自身の頬に叩き込んだ。

「……とうとうトチ狂ったか？」

　左馬刻が眉を顰めていた。理解出来ないといった顔に、そうだよなと思う。左馬刻の手がコンロの火を消した。目玉焼きが文句を言うのを辞めて息を吐いている。

「いや、自分の疚しさに、気付いたというか……」

　いやもう既にトチ狂ってるのかもと一郎は考えに至り、言葉をとめる。左馬刻が意味が解らないと言わんばかりに顔を顰めさせ、首を傾げさせる。背中を隠せるほどの長さのある、ふわふわとした髪が流れ、左馬刻の首筋が晒される。昨晩付けた独占欲の痕跡がよく見えた。

2024/03/11